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−とかくこの世は−トップへ (2007/02/09)

とかくこの世は
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第14回 ウナギの悪巧み

第13回 “リプレイ政治”からの脱却

第12回 曲折の白球譜

第11回 ボツになった死亡記事

第10回 ホフハ試験薬

第9回 団塊定年待望論

第8回 自殺予防薬

第7回 鎮魂譜

第6回 薩摩守はいずこ

第5回 「ハイ」と言えない子供たち


第4回 死のスタイル

第3回 日本史教えぬ「美しい日本」

第2回 ある暴走族との出会い

第1回 賀状有情

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 カモン!ルーシー
庫裡から悶々
ははんほほう話




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 檀林風発




肇道和尚の「如是我聞」

 終戦。62年前のその日、私たちは福島県白河市郊外、阿武隈川中流沿いの高原にいた。

 昭和20年3月10日の大空襲で東京を追われた陸軍輜重兵学校特別甲種幹部候補生第一期隊(学徒兵)はその地にあった旧軍馬補充部跡に駐屯していた。軍曹の階級章をつけた将校候補生とは名ばかり、実態は南瓜や大豆の種を蒔いて自活する屯田兵さながらの日々であった。

 6月、フィリピン派遣軍総司令官が台湾に逃亡したことを知って激怒した士官学校の先任将校が「日本は負けた。お前らは死ぬんだ」と兵舎内で喚いていた。

 8月に入ると6日には新型爆弾(原爆)が広島を襲い、8日、不可侵協定を締結していたソ連が参戦し、ソ満国境を越えた。その翌日夜半、非常呼集で叩き起こされ完全武装で集合した私たちに中隊長は「お前たちの命は貰った」と言い切った。本土決戦の日は刻々と迫っていたのだ。
 あと半月すれば見習い仕官に任官の予定だった。が、大半の候補生は、すでに「日本敗戦」を実感していた。

 終戦則ち敗戦の8月15日は暑い日だった。兵舎内の電信柱にくくりつけられたスピーカーから流れる玉音放送は電波事情が悪くて聞き取りにくかったが、敗戦と知って泣き出す者、ただ呆然とたたずむ者とパフォーマンスは様々だったが、その後の復員作業は粛々と進んだ。心の準備はすでに誰もが出来ていたのだ。

 「俺たちは皆タマ(睾丸)を潰されちゃうんだろうか」。そんな不安を真面目に口にする候補生もいた。窮地に置かれた人間が考えることは案外、この程度のくだらないことなのだろう。

          ※          ※          ※

 三橋国民、流政之といえば、80歳を過ぎてなお活躍する超一流の造形美術家だ。いずれも先の大戦では、生死の境を生き抜いた戦士である。流はパイロットとして、三橋はニューギニア戦線における数少ない生き残りである。彼らが彫刻家の道を選んだのは、亡き戦友の鎮魂を願ってのことだった。

 戦後、慰霊の旅の途中、老婆が引くリヤカーの首なし地蔵を見た流の問いかけに老婆は、戦死した息子のために供養した地藏さんだが
 「石地蔵の細い首の周りに雨水が凍りつくと首が落ちてしまう」といった。
 首の落ちない地蔵作り。その祈りが彫刻家・流政之の原点だった。

 南方の孤島で、幾多の戦友の死を看取った三橋は、悲惨な戦争の語り部と戦友の鎮魂をライフワークとすることを決意し、彫刻、彫金、石像、絵画、書道、モザイクなどあらゆる造形の世界を通して戦争の愚挙を訴え続けた。

 三橋の著書『鳥の島―死の島からの生還』によれば、今もニューギニアの人々は日本兵の幽霊を見るそうだ。彼はいう。
 「これからも平和な日々を過ごすために、戦争の犠牲となった人々に敬虔な祈りを捧げたい。お国の『知識階級』と思われる人が、たまたま『靖国論争』のような場で『英霊の尊さ』をも打ち消すような発言をすることは謹んで欲しい」。私もそう思う。(敬称略)



和尚が聞く!‐NYOZEGAMON INTERVIEW‐

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