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第52回 追憶のフィンガー・メロディー
 
庫裡から悶々
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第53回 新聞の酒

第52回 追憶のフィンガー・メロディー

第51回 “きょろきょろ人”

第50回 さあ大変!ハが抜けた

第49回 誰ぞ知る

第48回 国鉄由来の事故さばき

第47回 「○にする」

第46回 ゾロ薬品の普及を妨げるのは誰?

第45回 仏像展余話

第44回 “逆出家”老尼の有情無情

第43回 『K・Y』の政教一致

第42回 消えた檀家

第41回 臆病は隠蔽の母

第40回 撒き餌政治

第39回 串刺しルート

第38回 鈴虫だって「リンリ」と鳴く

第37回 複眼で成功した『おくりびと』

第36回 「笑っちゃう」ではすまない

第35回 語り継ぐ義挙

第34回 良い夢見ようよ

第33回 舌禍読禍宰相禍

第32回 冒頭の終わり


第31回 振り込め詐欺の真犯人

第30回 「老人力」のすすめ

第29回 僧徒たるを悔ゆる日

第28回 偶感「昭和二十年八月十五日」

第27回 仰げば恥ずかし わが師の陰

第26回 横綱の品格

第25回 『黄門さま』いずこ

第24回 戒めの16文字

第23回 百年目の「汚物教師」

第22回 怠慢の「12分」

第21回 物言いの一番

第20回 沖縄戦集団自決の真相究明に妥協は許されない

第19回 落ち葉して木々凛々と

第18回 『広辞苑』と私

第17回 子なき家

第16回 “軽老精神”

第15回 5W1Hプラスα

第14回 教育勅語から酌むべきもの

第13回 失われたニッポン人のDNAは再生出来るか

第12回 助けられたり助けたり

第11回 怯懦な共犯者

第10回 「最良のもの」探す日々

第9回 内角の和の中にをり石鼎忌

第8回 世直し先生は街角にいる

第7回 ある天文学者の遺言

第6回 壊れる家々の悲鳴

第5回 嗚呼!硫黄島−兵士たちの慟哭が聞こえる


第4回 よく聴けよ!柳沢大臣

第3回 無機質な社会の中で


第2回 義挙へのもどかしさ

第1回 ついの棲み家は姥捨山

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 カモン!ルーシー
とかくこの世はははんほほう話


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肇道和尚の「如是我聞」

 テレビでもおなじみの指笛演奏の創始者、田村大三さんが亡くなった。97歳だった。


 因縁浅からぬ間柄で、10年以上前には新築間もない拙寺の本堂で、「荒城の月」や童謡を演奏して貰ったことがある。“ゴッド・フィンガー(神の指)”が紡ぎだす朗々とした、時に粛々とした調べは、境内まで清々と響き渡り、聴衆をすっかり魅了した。80歳を過ぎた年齢を感じさせない力強いメロディーは、今も耳に残る。

 小学6年生の時、体操教師が「集合」の合図に、人差し指を口に咥えて出す軽妙な音色に惚れ込んで真似したのが病みつきになった、と聞いている。牧師だった兄が歌う讃美歌の伴奏を務めながら、時には街頭に立ったので、徳富蘇峰の『国民新聞』に「奇妙な口笛」の「若き街頭音楽家」と報じられ、世間から注目されるようになった。大三さん、20歳代のことである。口笛とともに、指を口にくわえて笛代わりにする習慣は昔からあっただろうが、自ら「指笛」と命名し、音楽として確立させたのは紛れなく、大三さんの功績である。
 その後、指笛は“散歩音楽”として人々に親しまれ、大三さんは戦前からラジオに出演したり、レコードも吹き込んだ。あまりに見事な音色に、「口に笛を仕込んだろう」と疑われたり、「その笛が欲しい」と子供にせがまれたこともあったそうだ。

 戦後は救世軍で活躍し、アメリカ軍のキャンプ巡りを重ねながら、念願の『指笛と管弦楽のための組曲』を完成させるなど、指笛の普及に努めた。その名は三省堂の「国語辞典」や岩波書店の「広辞苑」に登場、市民権を得ている。「指笛音楽」50周年を前にした70歳の時、皇太子ご夫妻(現天皇)から東宮御所に招かれ、“御前演奏”の栄にも浴している。活躍の舞台は海外にも及び、76歳の時には、米国ニューヨークのカーネギーホールで「55周年記念公演」を敢行した。

 訃報に接し、著書を贈呈されていたことを思い出し、書架から見つけ出した。『田村大三 指笛音楽60年』。著者のサインが記された扉を開くと、1枚の新聞記事のコピーが挟まれている。コピーについてはすっかり失念していたが、1962年10月15日付の毎日新聞で、社会の底辺・スラム街の問題に関心を持っていた現役時代に私が書いた記事だった。
 当時、日雇労働者が集まるドヤ(簡易旅館)街としては、東の東京・山谷、西の大阪・釜が崎が双璧とされ、独特の活気と騒動の場として知られていた。とくに山谷は東京オリンピック施設建設の一大労働供給源となっていたが、仕事にあぶれたり、様々な不満を抱えた住人たちが鬱憤晴らしに、ちょっとしたことをきっかけに交番を襲撃したり、道路を占拠して大騒ぎする事件が相次いでいた。クーラーが普及する前のことだから、夏場、狭い二段ベッドに押し込められた住人は涼を求めて外に出て、安酒に憂さを晴らした。山谷で騒げば、釜が崎が呼応して騒ぎ、しばしば機動隊まで出動していたが、不和雷同することなく「前向きに歩こう」と立ち上がる住人も少なくなかった。

 ある日、ひょんなことから早稲田大学前の古本屋の店主が早稲田出身で旧知の労相・石田博英氏(当時・故人)と語らって山谷を視察する、との情報を得た。店主を取材した際、私が「指笛演奏で慰問してはいかが」と持ちかけたところ、田村、石田の両氏が同じ秋田の出身だった縁から話はとんとん拍子に進んだ。ついでに「釜が崎でも」となって、実現したのが「山谷−釜が崎・指笛慰問演奏」だった。コピーの記事はその経緯を報じていた。それが大三さんと親しくなるきっかけともなり、私が新聞社の秋田支局長を務めていた時には、わざわざ支局まで訪ねて戴いたこともある。拙寺での演奏も2年続いた。

 後日談になるが、大三さんの指笛に励まされて山谷でのすさんだドヤ生活から脱け出し、幸せな家庭を築いた元住人・Nにもめぐりあっている。山谷での慰問演奏から2、3年たった頃、Nは東京の池袋駅東口にあった『丸物』(のち西武デパートと合併)という百貨店の2階踊り場で、風景画の個展を開いていた。指笛のメロディーに感動し、慰問演奏の実現に協力してくれた1人だったが、その際に奔走したことを人生のばねとして、山谷の街を出て、都下のある町の広報誌のイラストライターとして職を得ていた。Nは「東京でなら、田舎で獲ったカブト虫もデパートで売れるはず」と後の昆虫ブームを予言するような奇妙に先見性のある男でもあった。指笛のおかげで結婚もできた、と話していたが、その後の消息は知らない。今はどうしていることやら。そして、大三さんの死に何を思っているだろうか。

 大三さんのフィンガー・メロディーは、人生を奏でる音楽だった。







和尚が聞く!‐NYOZEGAMON INTERVIEW‐

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