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−庫裡から悶々−トップへ  第28回                                       (2008/08/27)
    偶感「昭和二十年八月十五日」
 
庫裡から悶々
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第35回 語り継ぐ義挙

第34回 良い夢見ようよ

第33回 舌禍読禍宰相禍

第32回 冒頭の終わり

第31回 振り込め詐欺の真犯人

第30回 「老人力」のすすめ

第29回 僧徒たるを悔ゆる日

第28回 偶感「昭和二十年八月十五日」

第27回 仰げば恥ずかし わが師の陰

第26回 横綱の品格

第25回 『黄門さま』いずこ

第24回 戒めの16文字

第23回 百年目の「汚物教師」

第22回 怠慢の「12分」

第21回 物言いの一番

第20回 沖縄戦集団自決の真相究明に妥協は許されない

第19回 落ち葉して木々凛々と

第18回 『広辞苑』と私

第17回 子なき家

第16回 “軽老精神”

第15回 5W1Hプラスα

第14回 教育勅語から酌むべきもの

第13回 失われたニッポン人のDNAは再生出来るか

第12回 助けられたり助けたり

第11回 怯懦な共犯者

第10回 「最良のもの」探す日々

第9回 内角の和の中にをり石鼎忌

第8回 世直し先生は街角にいる

第7回 ある天文学者の遺言

第6回 壊れる家々の悲鳴

第5回 嗚呼!硫黄島−兵士たちの慟哭が聞こえる


第4回 よく聴けよ!柳沢大臣

第3回 無機質な社会の中で


第2回 義挙へのもどかしさ

第1回 ついの棲み家は姥捨山

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とかくこの世はははんほほう話


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 檀林風発 
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肇道和尚の「如是我聞」

 あの日は暑かった。昭和20年8月15日。私は福島県西白河郡西郷村にいた。市町村合併が相次いだのに、63年経った今も、昔のままの地名が残っていると知って感慨一入である。
 村には、白河軍馬補充部跡に疎開した陸軍輜重兵学校の営舎があった。帝国陸軍最後の幹部候補生として学徒出陣した私たち「特別甲種幹部候補生」は、そこで本土決戦の日に備えていた。

 当時の模様を、同じ候補生だった上野一郎産能大学理事長が、その著『陸軍輜重兵学校の日々』で次のように伝えている。
 ――8月8日、ソ連が参戦し、ソ満国境を越えた。その翌日の9日、夜中に非常呼集がかけられ、完全武装で全員が集合した。
 「お前たちの命はもらった。ソ連が国境を越えた」と中隊長から聞かされた。
 広島、長崎への新型爆弾の投下、そしてソ連参戦以降は敗戦に向かってツルベ落としの秋の日だった。
 いよいよ敵軍の「本土上陸」、「一億玉砕」という時期だった――。

 「終戦の詔勅」のラジオ放送は、白河の山の中で整列して聴いた。電柱のような棒にくくり付けられたスピーカーから、天皇陛下の声が聞こえて来た。ラジオの状態が悪く、殆ど私には聞き取れなかった。前方の少佐が涙を流しているのを見て「これは負けた」と直感した。候補生の中にも泣き出す人があり、兵舎に戻って泣き続ける人もあった。
 第1区隊長のK大尉の様子がおかしいという噂が伝わったのは、翌日だった。上官のくせに候補生に自ら進んで敬礼する。行動は明らかに奇妙だった。間もなくK大尉は行方不明となり、一年後、付近の山林で拳銃自殺体となって発見された。

 本土決戦に備えての“タコツボ掘り”が、当時の私たちの主な作業日課だった。
 タコツボとは、その中に隠れて、頭上を通過しようとする敵戦車のカタビラを撃破する肉薄戦略用塹壕のことだ。すでに制空権を押さえられていた戦争末期の陸軍にとって、歩兵、工兵、砲兵などの兵科別機能などはとっくに失われ、全国に駐屯する軍兵は兵科を問わず、タコツボ掘りに専念していた。

 終戦で土方仕事から解放された私たちを待っていた任務は、“復員業務”だった。
 平たくいえば、進駐してくる占領軍に「自分が日本軍の将校を志願した男」であることの証拠の隠滅だったから、軍装姿の写真、名前を記入した操典(教科書)類など身の回り品一切を焼却した。御下賜の軍旗も焼いて、灰を側を流れる阿武隈川に流した。
 そんな身辺整理が4〜5日も続いただろうか。作業中、仲間の一人が不安そうに呟いた。
 「オレたちは、将校になることを志願したのだから、アメちゃんに玉を抜かれてしまうのだろうか」
 輜重兵学校入校以来8ヵ月、上官から叩き込まれた将校候補生の矜持などは、見事に掻き消えていた。


 “復員業務”のおかげで、軍隊生活をもの語る写真などは一枚も持たない私だが、密かに隠し持って帰ったものがある。出征軍人の必携品とされた日の丸の旗である。

 私が輜重兵学校に入校したのは、終戦の年の1月10日だが、その一週間前の1月4日に、東條英機元首相の世田谷区用賀の自宅を訪ね、国旗にサインをお願いした。どうせ入隊するのなら、最高指揮官だった東條さんの署名入りの国旗を肩にかけ、勇ましく営門をくぐってやろうと考えたからだ。
 東條邸は、玉電用賀駅の近くにあった。一国の総理が住む家には似つかわしくない粗末な造りだった。今となれば不思議だが、首相を退いたとは言え、重鎮の自宅にもかかわらず、衛兵の姿は目につかなかった。
 訪問時、東條さんは玄関先の廊下の中程にあった壁掛け式電話で激しく議論していたが、私の来意に自ら応え、何事も無かったかのような穏やかな表情で応接室に招き入れてくれた。やはり簡単なしつらえで、終戦後、拳銃自殺を図った場となるのだが、その部屋で元首相は、自ら硯に墨を研いだ。
 「一誠當国難 昭和二十年春 東條英機」
一気に書き上げると、「ご苦労だな。君も聴いたように、これから陸軍省に行かねばならない」と語り、勝子夫人に、私をもてなすように言い残し、あわただしく出掛けていった。
 当時、一般では手に入らなかった虎屋の羊羹を振舞われ、みやげまで頂戴して帰ってきた記憶はいまだに鮮明である。

 その時の国旗が今も手元にある、軍隊生活の唯一の証しとして。


 63年後の終戦記念日を挟んで、北京でオリンピックが開催された。「参加することに意義がある」はずの五輪だったが、当節は各国選手たちが競技後のウイニングランで、自国の国旗を体に巻いて走る姿が目立つ。母国の名誉を賭けてメダルを競っているせいだろう。
 メダルこそ国勢のシンボルなのだ。とすれば、メダルを目指して、敢闘する選手たちの五体にほとばしる血潮を「愛国心」と呼んでいいのではなかろうか。

 「愛国心」という言葉を公言することさえ憚る今の日本人。戦後63年経っても、萎縮し続ける日本人。拉致や竹島、北方領土問題をめぐっても対等の発言を控える日本外交のもどかしさ……。
 いつまで待ったら、日本は立ち直れるのか。8月15日を迎えるたび、あの大戦に殉じた同世代の仲間たちの遺志はどうなったのだろうか、と胸掻き毟られる思いに駆られる。


 佐藤早苗著「東條英機 封印された真実」(2000年3月、講談社発行)によれば、東條元首相には3通の遺書があったそうだ。その要旨は次のようなものだった。
 《英米諸国人に告げる》諸君の勝利は力によるものであって、正理公道による勝利ではない。いかに戦争は手段を選ばないとはいえ、原子爆弾を投下して無辜の老若男女数十万人を一挙に殺戮したことは暴虐非道の極みである。今後、このような惨事を顧みることなく第三、第四の世界大戦を引き起こせば、人類の滅亡は必至であろう。一大猛省を促す。
 《日本国民諸君》大東亜戦争は彼らが挑発したものであり、国家の生存と国民の自衛のためにやむを得ず受けて立った。私は諸君が隠忍自重し、どのような努力をも怠らず気を養い、肝を練り、現在の状況に対処することを祈って止まない。
 《日本青少年諸君各位》殉国の烈士は、決して犬死したのではない。今後は強者に拝跪し、世間におもねり、おかしな理屈や邪説におもねり、雷同するものが少なからず現れるだろう。しかし、諸君は日本男児の真骨頂を堅持していただきたい。真骨頂とは何か。愛国の日本精神。これだけである。


 敗戦の重大責任者の今際のたわごと、と捉えるもよし。負け惜しみと自己弁護の勝手な言い分とも響くだろう。元首相の評価がすこぶるよくないことも重々承知している。されど、戦争期を生きた一人として、仕掛けられた戦争、大量殺戮の人道無視の大罪という指摘には首肯したいところがある。一出征兵士の求めに応じて快く揮毫しくれたから、というわけではない。

 復員直後の私の日記帳には「地球上に国境と人種差別が存在する限り戦争は絶えないのだ」と書かれている。悲しくも虚しいことに、平和の祭典、オリンピックの開催に合わせて旧ソ連グルジアのオセチアでは、国境紛争と人種対立を背景に軍事衝突が起きた。
 一体いつまで、人は過ちを繰り返せば気が済むのだろうか。









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