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和尚が聞く!
春風亭柏枝さん インタビュー
落語家 春風亭柏枝さん インタビュー
 春風亭柏枝師匠は今年9月、大名跡の八代目春風亭柳橋を襲名することが決まっています。大看板を背に益々のご活躍が期待される折も折、城源寺にお出で頂いたのを幸いに、新聞記者出身の古林肇道住職がインタビュー、前座時代のエピソードから落語界の裏話、今後の抱負まで、ざっくばらんに語って頂きました。

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「親子酒」を熱演 ――当山のフォーラムでの師匠の独演会は今日で6回を重ねました。お陰さまで毎回、大好評です。今日の「親子酒」も、左党の癖や習性が生き生きと演じ出されて、観客は笑い転げ通しでした。
 ここの高座では時間の制限もないし、お客さまの間近で噺ができるので、私も楽しませて頂いています。反応を見ながら、よい勉強もさせてもらってます。ネタは初回が「井戸の茶碗」、次いで「お神酒徳利」「二番煎じ」「めか馬(八五郎出世)」と続いて、去年が「ねずみ」、そして今年が「親子酒」。同じネタがダブらないように気をつけています。

 ――会場が寺の本堂ということで、演じにくいところがありますか?
大笑いする参加者たち 正直言って、最初は寄席とは違って落語を聞く目的で集まってくださったお客さんばかりではありませんし、落語が初めてという方もいらしたようなので、ちょっとつかみにくいような気がしました。でも、ここ2、3年は、お客さまも楽しみにしてくださっている様子が伝わってきます。目の前にいらっしゃる皆さんに笑って頂けるのは、本当にうれしいことです。
 
 ――師匠はなぜ、落語の道に入られたのですか?
 親が落語好きだったせいか、子どもの頃からラジオやテレビでしょっちゅう落語を聞いていたんで私も好きになり、大学に進んだら落研(落語研究会)に入ろうと決めていたんです。それで東京経済大に進み、早速落研に入って落語をやってみると、聴いているよりもよほど面白い。それじゃあ、噺家になろう、と決めました。もし、高校にも落研があれば、大学には進んでいなかったかも知れません。

 ――そんなに面白いのですか。
 たくさんの人が自分に集中してくれて、一言一言に反応してくれる。こんなに気持ちがいいことはありません。昔の名人上手と呼ばれた人は、お客さんを突き放したり、噺に引き込んでみたり……自由自在に操った、と言われています。その域まで達したら本当に楽しくてたまらないでしょうね。

        落研の縁

 ――師匠の大学の先輩で、落研の先輩でもある末政さんが当山の檀家さんで、フォーラムに出演してもらったらどうか、と師匠を紹介されたのが、“城源寺寄席”のスタートのきっかけとなりました。
 ええ。末政さんは東京経済大の落研の創設者の1人でして、学生時代からお世話になっております。こちらに伺うようになったのも結局は落研のご縁ということになりますが、実は、先代の柳橋師匠には落研の顧問をして頂いておりまして、その縁で入門したのです。

 ――それでは、大学を卒業してすぐに入門されたのですか。
柏枝師匠 いや、2年間ほどサラリーマンをしてからで、入門したのは昭和57年です。実は卒業後、直ぐに柳橋師匠に入門を願い出たのですが、相手にしてもらえなかったのです。後で分かりましたが、「弟子になりたい」と言われたら、とりあえず何回か断るもんなんですね。落語の世界は何の保証もない、師匠としては何の責任も取れない。だから、よほど自分が好きでやりたいっていう気持ちがないと、噺家にはなれないし、なっても続かない。入門を断ってあきらめるならば、それが当人にとってもいいのだろうと、師匠の側は考えるわけです。
 私の場合も型通り断られたのでしょうが、親は反対するし、長男なので家のこともあり、一度はあきらめたんです。それで冷凍コンテナを販売する企業に就職し、営業マンとして名古屋営業所に配属されてアイスクリーム屋さんや肉屋さんを回ってセールスをしていたんです。しかし、噺家への夢絶ちがたく、改めて入門を願い出たらどうにか認められた、という次第です。

     前座修業の厳しさ

古林住職 ――新聞記者の修業もかつては徒弟制度に支えられていましたが、落語界では今でも厳しい徒弟制度が続いているようですね。

 ええ。入門すると、「前座」になりますが、身分も噺家ではないし、365日拘束されて自由はまったくない。始終、バカヤロウと怒鳴られながら、師匠の身の回りの世話から寄席の楽屋回りの雑用などをこなします。4年ぐらい経って「二つ目」として噺家の末席に名を連ね、さらに10年前後で晴れて「真打ち」になるのが、一般的なコースです。
 だから、噺家としては本来なら「真打ち」になって一人前と認められた時が一番うれしいはずなんですが、噺家は皆「二つ目」になった時の方がうれしかった、と口を揃えますね。「前座」の年季が明け、解放される喜びが大きいからでしょう。しかも「二つ目」ならば自分のことだけを考えていればいい。「真打ち」になると、プレッシャーとか責任感が強くなるんで、手放しでは喜べないんですよ。芸だけに限りませんが、同じことをしても「二つ目」なら「若いのに頑張っているね」と言われるところを、「真打ち」になると「エッ、これで真打ちか」と言われっちまいますから。
 昔は「真打ち」になると、安定した収入が約束されたものでした。逆に言えば、「真打ち」になれない人がいっぱいいたんですね。最近は「真打ち」になるのは昔より楽になったといわれます。「真打ち」にしてから、競争させて芸を磨かせよう、という考え方になったのでしょう。「真打ち」だからと言って収入が安定するわけでもなくなりましたから、余計に「二つ目」になった時の解放感が忘れられないのでしょう。

     先代の柳橋と三木助

 ――先代の七代目柳橋師匠はどのような方だったんでしょう。
 ウチの師匠は4年ほど前に亡くなりましたが、私にとってはまるっきり親みたいなもの、いや、親以上でしょうか。単なる面白さや楽しさだけでなく、落語の奥深さを教えてくれた人。何てったって、一銭も取らずに一人前にしてもらった師匠ですから。テレビなんかにはあまり出なかったんで、ご存知じゃあない方もいらっしゃるでしょうが、三代目の桂三木助の弟子だったので、三木助の十八番だった三遊亭圓朝原作の「芝浜」をはじめ、三木助系のいい噺をされる師匠でした。

 ――師匠とは相性も良かった?
春風亭柏枝さん そうですね。結局は落語だけでなく人間性についても、目指しているもの、価値観が合ったんでしょうね。兄弟子も何人かいたんですが、事情があって途中で辞めたりして、「真打ち」になったのは私が最初。それで一番弟子ということになり、今回の襲名の話にもつながったわけです。噺家は万事が師匠次第でしてね。たとえば、下戸の師匠につくと前座の修行中に酒を呑むなんてとんでもねえ、となる。ところが、酒好きの師匠なら「まあ、そうは言っても」と呑ませてくれたりもするわけです。「師匠の選び方も芸の内」といった言葉もあるほどなんですよ。

 ――大師匠と気が合ったのなら、前座時代はしごかれずに済んだのですか。
 いやいや、とんでもない。落語界一うるさいと言われた三木助師匠のところで修業してきた人ですから、とにかく厳しかったですね。

 ――三木助はそんなにうるさかった?
 気難しい上に几帳面な人で、寝床を準備するにしても、布団を敷く畳の目まで決まっていたんだそうです。少しでもズレていたら駄目。しかも、毎晩日記を寝床で書くのですが、3本の万年筆にそれぞれ違う色のインクを入れていて、その日の気分で使い分ける。お望みの万年筆がパッと手を伸ばしたところにないと、もう大変だった。だから、弟子は師匠の顔色を読み、「今日はこの色だ」と見当をつけた万年筆を枕元に置いておかなければならない……。

 ――その三木助師匠の直伝を受けたのでは、大師匠が厳しくても、無理からぬところですね。
 でも、ウチの師匠はその後、大らかな人柄で知られた六代目の柳橋師匠、ラジオの「とんち教室」でも有名になった噺家ですが、その六代目の指導も受けているんで、二人の良いところを受け継いでいらしたですね。すごい細かいことを言われましたが、それは最初の2年ぐらいのもので、あとは小言も少なくなりました。

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〜肇道和尚の『如是我聞』〜
庫裡から悶々とかくこの世はははんほほう話

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