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ははんほほう話                                (2011/02/03)
第18回  鬼手仏心の裏側から
ははんほほう話
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第18回 「鬼手仏心」の裏側から

第17回 “村十分社会”への叛旗

第16回 トイレの神様

第15回 大きな忘れ物

第14回 “キになる”言葉

第13回 汝、西方を思念せよ

第12回 自殺と共生――清水由貴子さんの死に思う

第11回 僧侶の一分

第10回 妙子地蔵縁起

第9回 「共生」考

第8回 私のお墓の前で泣いてください

第7回 「足のない教団」といわれて

第6回 おふくろさんよ

第5回 ウルトラマンの慈悲

第4回 ほのぼの交番

第3回 「定形外」を目指す


第2回 再論・悪魔ちゃん騒動

第1回 本能と煩悩

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 カモン!ルーシー
庫裡から悶々
とかくこの世は




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 檀林風発
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肇道和尚の「如是我聞」
 
 第144回の直木賞に選ばれた道尾秀介さんのエッセーを、毎日新聞紙上で読みました。以前、山本周五郎賞を受けた時、作家仲間の先輩で坊さんの玄侑宗久さんから、「私の好きな言葉だが」と添え書きした4字熟語の墨書を贈られた、というのです。そこには『鬼手仏心』と刻まれていました。道尾さんは、作家の心構えを教えてくれた先輩の思いやりが今回の受賞に結びついたと、感謝の気持ちを綴りながら作家の仕事の奥深さを明かしていたのです。

  鬼手仏心。最近、よく耳にする言葉です。仏教用語のように響きますが、仏教辞典には載っていません。広辞苑を引くと、「鬼手仏心(きしゅぶっしん)=外科手術は体を切り開き鬼のように残酷に思えるが、患者を救いたい仏のような慈悲心に基づいているということ」と記されていましたが、旧版には出ていない言葉ですから、「アラフォー」の類の流行語から生まれた新語かもしれません。反対の表現として「外面似菩薩内心如夜叉」が掲げられていました。
 岩波の四字熟語辞典には明解な解説があって、「一見、仏教語のように見えるが、それにならって外科医界で言い出したらしい」と、語源にも言及していました。それによれば、「本来は外科手術に際し、技術的には鬼神のごとき冷酷さと冷静さと技とを発揮する一方で、患者の身を思いやる仏のごとき心を忘れないようにと、外科医が自身に向けた戒め」なのだそうです。

 道尾さんはこう言っています。「小説の中ではどうしても登場人物たちがひどい不幸に見舞われたり、哀しい不運と対峙したり、誰かを裏切ったり裏切られたりして心に傷を負う。救いを描くことは、救われるべき人々を描かねばならないということで、彼らには心に傷を負って悲しんでもらうしかない。哀しんで、悔しがって、泣き叫んでもらうしかない。しかしその時、もし作者が仏の心を持っていなかったらどうなるだろう。救いなど絶対に描けないに違いない。少なくとも読者には伝わらない。鬼手仏心。自分が描く登場人物たちを心から愛すること。彼らと共に必死に救いを願うこと。それが作者が登場人物たちに不幸や不遇を与えるときのたった一つの免罪符であり、救いの絶対条件なのだ」――と。

 警句とは、理想的な行動原理やあるべき心構えを示すものです。逆説的に言えば、現実には難しいことだから警句ができるわけですね。鬼手仏心という言葉が聞かれるようになったのも、仏のような慈悲の心を備えるどころか、拝金主義に堕ちて病気でもない臓器まで摘出する鬼畜の医者が増えているからに違いありません。そう考えると、玄侑さんや道尾さんが目指す作家の道の険しさも際立ってきます。

 その伝になりますが、鬼手仏心について調べようと手持ちの辞書類を漁っているうちに目に留まったのが、スイスの教育改革家、ペスタロッチ(1778〜1830)の警句でした。

 「家庭よ、汝は道徳上の学校なり」
 200年も昔の言葉ですが、家庭のしつけや教育の力が極端に落ち込んでいる今日、立派に通用する名言ではないでしょうか。なるほど、と妙に得心し、一服しようとテレビを点けると、NHKの朝ドラ『てっぱん』の再放送が流れていて、お好み屋のバイトに雇われた若い女性が口走った科白に唖然とさせられました。「一つ屋根の下に住むというだけで皆が揃って食事するなんて気持ち悪い」

 はて、さて。『てっぱん』では風変わりな下宿屋での集団生活が一場面として描かれているのですが、食事を共にすることによって擬似家族が出来上がっています。食事は家族としての共同生活の基本中の基本のエレメントだからです。それを「気持ち悪い」とされては家族が崩壊してしまいます。それなのに、『てっぱん』の科白のように「気持ち悪い」とする考え方が芽生えているのが今日の世相なのでして、これはすなわち、家族のありようが揺らぎ出していることの証左と言えるでしょう。いや、揺らぐどころか、家族が別々に食事を摂り、子どもたちが1人での食事を強いられる“孤食”が社会問題化し、親子の断絶や子の非行の元凶とされているのが社会の現実の姿なのです。

 考えてもみましょう。かつて家族は日々の糧を得るために共同して狩猟・採集に出かけ、あるいは耕作に励みました。その成果である食物を分かち合い、譲り合いながら、互いの健康を気遣い、子どもたちの成長を見守ってきました。食事は家族の絆の象徴。また、一緒に食事をすることは人と人のつながり=情の原点にほかなりません。心を一つにしていくために必要不可欠な人生作業とでも言ったらいいでしょうか。

 その人生作業を取り持ち、食事よりも強力に、人々の心を一つに結ぶのが「仏心」なのです。人々の思いは千差万別でも、その内に秘める思いやりを紡いで公約数を追求していけば、いつかは一つに結ばれていく。浄土宗の僧侶としては、そう信じて南無阿弥陀仏の念仏を唱えるのが大切だと申し上げておきましょう。

 おなじみになったはずですが、城源寺の節分会では「オニは外」の掛け声で鬼をいったん、外に追い出します。そして、冷たい風にさらされたところで「オニも内」と呼び戻します。鬼手仏心ではなく「鬼仏同心」。浮き世の鬼をも取り込む慈悲の心で、世の中を明るくしたい。そんな願いを込めているのです。







和尚が聞く!‐NYOZEGAMON INTERVIEW‐

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