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ははんほほう話 (2007/01/02)
第1回  本能と煩悩  
ははんほほう話
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第11回 僧侶の一分

第10回 妙子地蔵縁起

第9回 「共生」考

第8回 私のお墓の前で泣いてください

第7回 「足のない教団」といわれて

第6回 おふくろさんよ

第5回 ウルトラマンの慈悲

第4回 ほのぼの交番

第3回 「定形外」を目指す


第2回 再論・悪魔ちゃん騒動

第1回 本能と煩悩

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 カモン!ルーシー
庫裡から悶々
とかくこの世は


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 檀林風発




肇道和尚の「如是我聞」

 訪れた家の庭先には、枝もたわわに柿が実っていました。年老いたその家の主人は、そのいくつかをもぎ取ってご馳走してくれました。「この柿も今年が最後でしょう。味わってやってください」と、添えた言葉を私は解しかねました。

 聞けば、植物は自らの寿命を知ったとき、精一杯に実を付けるといいます。後々に種を残すためだそうです。蛾に食い荒らされたシラカバやポプラの葉には、青葉アルコールが増加して危険を予告し合うそうです。

 自然界のものすべてが、懸命に生きています。ただ生きるだけではありません。身を犠牲にしてまでも、種族の繁栄を念じているのです。

 新本堂が落成した翌年のことでしたか、境内と墓地にあった四本の松が、松くい虫の被害に遭いました。いずれも百年に近い古木でした。色濃い緑の松葉は見る見るうちにモグサ色に変わり、茶色と化して枯れていきました。残された幹にはすでに樹液はなく、パサパサでした。建材はおろかパルプ原料にもなりません。最後の一滴の樹液を吸い上げてまで生きようとした“生への執着”に脱帽しました。

 昭和初期の城源寺境内は、梅林でした。姉が通っていた城内小学校(当時の小田原第二小)一年生の遠足は旧寺領の競馬場でしたから、梅林の芝生で弁当を食べたそうです。今は数本が往時の面影をとどめるだけです。旧本堂脇にあった一本は、皮一枚で生き続けています。実はアバタだらけで、梅干には不向きでした。それが本堂再建話が起こった頃から、枝も垂れ下がるほどに実を付けるようになりました。その実がまた、一皮向いたようにきれいなのです。境内整備で切り倒されまいと、奮い立ったかのようでした。

 高等植物は虫の攻撃や物理的衝撃を受けた場合、それを知らせる共通言語を持っているとは、渡辺完・元東大教授の説ですが、逆境と闘う植物の生き様には、鮮烈なものがあります。これが植物の本能というものでしょうか。

 本能と言えば、森羅万象ことごとくが本能を備えています。雌鳥が孵したヒナを襲うものに敢然と立ち向かうのは、母性本能です。辞書には、本能とは「もって生まれた性質、能力のこと」とあります。

 私たちが阿弥陀さまに向って「南無阿弥陀仏」と手を合わせるのは、阿弥陀さまの本願を期待するからです。阿弥陀の本願とは、阿弥陀さまが西方浄土の国王となるために四十八の誓いを立てました。その誓願の柱ともいえる十八番目(本願)に「わが名を唱えて救いを求めるものを見捨てはしない。必ず極楽寺浄土に往生させる」とあります。そのための修行を終え、誓い通りの神通力を得たのが阿弥陀仏です。

 弥陀の本願は、永劫にわたる修行の末に獲得した不動のものですから、弥陀の本願=慈悲=仏の本能といってもよいのではないでしょうか。念仏を唱えることは、阿弥陀さまの本能に抱かれることです。

 辞書を引いたら、「本能」と並んで「煩悩」という対照的な言葉がありました。何とも皮肉な暗示ではありませんか。


              (『花岳山報』1994年元旦号「月光」をリメークしました)




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